2018年4月3日、読売新聞
銀座の「木村屋」が考案
アンパンは明治初期、東京・銀座の「木村屋」(現・木村屋総本店)で、創業者の木村安兵衛・英三郎親子によって考案されました。
酒種でパンを作る
木村親子は、文明開化で庶民の口に入るようになったパンを日本人向けに改良する中で、パン酵母の代わりに、米、水と糀(こうじ)で作った酒種(さかだね)を生地に混ぜ、発酵させる方法を思いつきました。昔ながらの酒(さか)まんじゅうがヒントになったとみられます。
山岡鉄舟の目に留まる
このあんパンに魅了され、全国に普及するきっかけを作ったのが、幕末から剣客として知られ、当時は明治天皇の侍従を務めていた旧幕臣・山岡鉄舟です。
明治天皇、皇后にも献上
鉄舟の働きかけにより、1875年(明治8年)4月4日、木村屋のあんパンが、東京・向島に花見に訪れた明治天皇と皇后に、お茶菓子として献上されました。八重桜の花びらの塩漬けが埋め込まれたあんパンを両陛下はとても気に入り、「引き続き納めるように」と話されたそうです。
4月4日は「あんぱんの日」
やがて、人気は全国に広がり、菓子パンの定番になりました。現在、献上の日にちなみ、4月4日は「あんぱんの日」とされています。
【人生食あり 文明開化の味がする】道楽学 パン(1) あんパン
2006年10月15日、産経新聞
明治天皇のお気に入り
ポルトガル人によりパン食が伝わる
『日本のパン四百年史』では、日本にパンを伝えたのは、戦国時代の天文12(1543)年に鹿児島県の種子島に漂着したポルトガル船や、天文18(1549)年に日本へ上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルら外国人だった-と推測している。キリスト教の教えと深い関係があるパン。布教と同時に「製パン技術とパン食の習慣が、普及して行った」とする。
江戸時代の鎖国で消える
しかし、江戸時代に入り鎖国政策が強化される中、パン作りは長崎などごく一部をのぞいて途絶えてしまう。本格的なパン普及は、やはり文明開化を待たなければならない。
日本人のためのパン
明治以降、洋食が広まると、横浜や東京にも続々とパン屋が登場した。そのパン屋の一つが、日本人のためのパンとして考案したのが、あんぱんである。
木村安兵衛と息子の英三郎親子
1875年4月4日
明治8(1875)年4月4日、東京・向島の水戸藩下屋敷を訪れていた明治天皇に、不思議なパンが献上された。パンの上には、奈良の吉野から取り寄せた八重桜の塩漬けが埋め込まれ、パンの中からは、あんが現れた。東京・銀座のパン屋である木村屋の創始者、木村安兵衛と息子の英三郎親子が作った、あんパンだった。
天皇と皇后が大変気に入る
木村屋は明治2(1869)年創業。日本人の口にあったパンを求め、米と糀(こうじ)で培養した酒種酵母によるあんパンを完成、明治7年には大評判になっていた。それが安兵衛とかねてより知己だった明治天皇の侍従、山岡鉄舟の目に留まり、献上されることに。天皇と皇后はあんパンを大変気に入り、「引き続き納めるように」とねぎらったという。
全国に普及
明治20年ごろには、あんパンは全国に知れわたり、木村屋にはその技術を学びたいという希望者が殺到した。木村屋では一人前に育てたパン職人に免許証を出し、のれん分けをしていった。こうして明治30年代、日本独自の菓子パンの味は全国に広まった(『パン産業の歩み』)。
桜あんぱん
現在も明治天皇に献上したあんパンの味を「桜あんぱん」として守り続けているのが、東京の木村屋総本店銀座本店。「桜あんぱん」をはじめ9種類のあんパンが店頭に並び、多いときで1日1万5000個も売れるという。
おやつ
製販課販売係主任の鈴木秀彦さんは、あんパンの魅力を語る。「西洋でパンは食事ですが、あんパンはおやつに近い感覚で食べられます。いつ食べてもよい手軽なものでありながら、明治天皇にも献上されたほどの味でもあります」
上品なこしあんの甘みと桜の塩味
焼きたてのあんパンを一口ほおばる。上品なこしあんの甘みに添えられた桜の塩味が絶妙だ。明治天皇も舌鼓を打ったあんパンだと思うと、なにやら高貴な味わいに思えてくる。
2005年10月23日、読売新聞
三重県伊勢市、角屋夫妻のパン工場
三重県伊勢市の豊浜漁港近くの自宅兼工場で、角屋功(48)、由佳(44)夫婦はひたすらパンを焼く。
不況で原綿運送会社を閉鎖
工場はもともと紡績工場に原綿を運送する会社の事務所だった。父親から引き継いだ会社だったが、不況の風は容赦なかった。35歳の時、取引先から「回す仕事はもうない」と言われた。閉鎖するしかなかった。
パン職人として修業していた過去を活かす
再出発として選んだのは手作りパン屋。功は21歳の時、奈良県生駒市のパン屋で修業したことがあった。本当はすし職人になりたかったが、弟子入りを志願した大阪のすし店で「年齢的に遅い。パン屋はどうだ」と言われた。「米が小麦粉に変わったと思えばいい」
手作りパン屋として再出発
1年半が過ぎ、パン作りの楽しさが分かりかけたころ、父の会社を手伝わなければならなくなり、伊勢に呼び戻された。その会社が続けられなくなって、一度はあきらめた夢を追うことにした。由佳も賛成してくれた。
半年間の猛修行
もう一度、生駒のパン屋で修業させてもらうことにした。パン屋の主人は「ちょっと遠回りしただけ」と、昔と同様に熱心に教えてくれた。家族を食べさせていかなければならない功に、時間の余裕はなかった。朝から夜までみっちり修業し、半年で伊勢に戻った。
ワゴン車でのパン販売
設備費や材料費などで貯金は底をつき、店を構える余裕はなかった。夫婦で焼いたパンは、ワゴン車に積み、伊勢市内の工場や駅、商店街近くの空き地などで販売した。「味と手ごろな値段で固定客をつかむことが第一だと思った。もう後戻りはできない」。焼いたパンをその日のうちに完売することに必死だった。
独自のあんパンで大手に対抗
主力のあんパンは、普通のあんから、こしあんにサツマイモを混ぜたり、白あんに干し柿を混ぜたりして、独自のあんを考案して種類を広げている。大手メーカーと同じものを作っていては勝てないからだ。
評判が広がり販路拡大
評判は口コミで広がり、注文は徐々に増えた。今ではサンドイッチやソーセージパンなども手がけ、病院や学校の売店など、週に約20か所を行商する。スーパーや喫茶店にも卸し、14人を雇うまでになった。
息子もパン職人の修行中
「生まれ変わってもパン職人になりたい」。功は改めて天職だと思う。いつのころからか、「跡を継ぎたい」と言い出した長男の武蔵(たけぞう)(20)は今、兵庫県芦屋市でパン職人の修行中だ。
息子とともに喫茶店を開く夢
武蔵とともに、焼きたてのパンを出す喫茶店を兼ねた店を構えるのが、夫婦の夢だ。「その日まで、露天販売と卸しで、信用という貯金をためていきたい」と、二人は思っている。